理論とは

理論にはふたつの意義があると考える、ってのを前提にします。

一つは技術の言語化。これをしておくことで、沢山のノウハウのつまった行為を一言で言えるようになる。「野菜を包丁を浅く入れてこそげるように細長くいくつも切って」、てなことを「ささがきお願い」、で済ませられる。

もう一つは知識、経験の拝借、先人が経験や失敗から学び、体系立てたものをまるっと自分のものにしちゃう。つまりずるっこ。前述のささがきで言えば、そういう切り方をしておけば火が通りやすくなるとともに食感もよい、ってことが試行錯誤することなくものにできる。

しかし、これを芸術に当てはめると、理論をお勉強と考え(確かにお勉強ではあるのだけど)、型にはめることだと考えるような向きを感じることがある。これは大きな勘違い。

昔、森若香織が理論を学ぼうとしたときに、そんなの学んだら香織ちゃんの個性が消えちゃうよという周りの言葉に対して、彼女は私の個性はそんなことでは消えないと返したそうだ。

オーケンは長らく鼻歌で作曲し、曲の体を成させるのはバンドメンバーだったわけで、それを自分ではフィーリングで(いわば自由に)作曲してきたと考えていたのだけど、ギターを始めるようになって勉強したところ、ただのEmでショックを受けたという話もある。

理論は芸術を助けてくれる。思いついたアイディアを、試行錯誤することなく形にする手伝いをしてくれる。こう、なんとなく暗い響きでってことが、和音の中の3度の音を半音下げるとそうなるよとか、目に痛いぐらいビビッドな色使いでってことが反対色を使うとそうなるよ、とか。そういう余計な諸々は理論に任せて、核となるアイディアを磨くことに集中できるようになる。理論の助けがないと、その諸々を考えることにリソースを取られ、そのうち核が霧散してしまうこともある。まあ、ヘンドリクスとかみたいなちょうぜつ天才には関係ないかもしれないけど。大体の人はそれがないとやってられないはず。

忘れてしまったのだけど何ヶ月か前に読んだツイートで、理論や過去作を学ばないやつほど(自由に)凡庸なものを作ってくることが多いというのがあった。まったくその通りだと思う。普段は市民に紛れているけど実は王家のお偉いさんって人が悪を前に正体をさらしてひれ伏させる、なんてのをドヤ顔で書いてきたら、それは水戸黄門メソドと言ってだね、と呆れるしかなくなるのだ。

そんなことを書くに至ったのは、この記事を読んだから。

bobdeema.hatenablog.com

neralt.com

何故下の記事がおもしろくないというのかということをおれなりに書くと、最後の方にあるこの一文が大きい。

もし、こういった分類を知らなければ、(大げさかもしれませんが)、常にパーフェクト・ライム、つまりほとんど同じ言葉を並べるライムしかできない可能性もあるわけです。

そんな可能性はないでしょ。大げさかもとかつけてもそれは変わらない。おそらく一人もいない。例えば「一路」と「道を」で踏めると思いついたけど、パーフェクトライムじゃないからダメだ、なんて人がいると本気でお考えか。順番が違う。ブコメで知り合いのヒップホッパーに教えてあげようなんてのがあったけど、そんなことしたら嫌われるぞ。ライムはそうやって作らない。音については詳しいのだろうけど、ライムについての理論といったらまるで体をなしていない。(これはこの韻踏み夫さんの書かれていることとおそらく同じなのだけど)

知識とスキルは決してイコールではありませんが、知識がスキルを底上げする可能性は大きくあります。今回ご紹介したライムタイプの分類が、寄与できるはずだと考えています。

だから、前半についてまったくその通りで、後半においてまったく無意味なのだと思います。

それが作る上で何の役に?意味の通りや機能の方が遥かに、比較にならないほど重要で、音、特に子音についてどうこうなんてどうでもいいでしょ。そこを分析して何かがわかったところでライミングにはほとんど何の役にも立たない。ライムのおもしろさはそこではない。

きっと、それ以上のことも書ける人なのだと思うけど、とりあえずこの記事だけではそう言わざるをえなかった。おれの中の山岡士郎が出てきてこう言った。「あんた、ライムに愛着を感じていないんだねえ」

そして、おもしろかったり役に立たないなら理論でなくオナニーだし、オナニー理論はかえって興味を持った人を遠ざける悪ですらある、と思う。理論は楽しく!